連載24 記録に見る日本のスキー競技史
1923年、日本のスキー競技ははじまった
1973年(昭和48年)
第51回全日本スキー選手権大会
会場 | :アルペン | 長野県野沢温泉村・野沢温泉スキー場チャレンジコース |
会場 | :ノルディック | 北海道札幌市・真駒内距離競技場/大倉山ジャンプ競技場/宮の森ジャンプ競技場 |
■アルペン
順 | 滑降 | 回転 | 大回転 |
---|---|---|---|
■男子 | |||
1 | 雪不足中止 | 柏木 正義(帝国観光) 48.24/56.20 1:44.44 |
千葉 晴久(専大) 1:11.72/1:03.16 2:14.88 |
2 | 小野塚 茂(日本楽器) 52.30/55.96 1:48.26 |
富井 澄博(西沢スキー) 1:11.53/1:03.70 2:15.23 |
|
3 | 富井 澄博(西沢スキー) 53.18/55.40 1:48.58 |
柏木 正義(帝国観光) 1:13.31/1:04.49 2:17.80 |
■女子 | |||
1 | 雪不足中止 | 岡崎恵美子(アジアスキー) 41.91/43.50 1:25.41 |
沖津はる江(美津濃) 1:24.26 |
2 | 村川 励子(日本楽器) 43.46/47.56 1:31.02 |
星野 玲子(専大) 1:27.79 |
|
3 | 深井 則子(アジアスキー) 45.38/46.46 1:31.84 |
富井 春美(北野建設) 1:27.94 |
大会は、シュナイダー杯を兼ねて行われたが、滑降は雪不足(会場は苗場スキー場)のため中止となった。12月からワールドカップ、ヨーロッパカップ遠征組も出場し、レベルの高いレースが展開された。この大会では、FISレースで2年前から採用されている「新ビボー方式」(2本目タイムの逆順にスタートする)がはじめて行われた。
後にワールドカップで活躍した海和俊宏(新庄農高向町分校)は、大回転で106番から19位へ飛び込んで注目された。前年まで大回転は1本だったが、今回から2本となり、コーチの富井一はスキー年鑑で「選手強化で大いにプラスになった」と報告している。
■ノルディックコンバインド
選手名 | 所属 | 飛躍点 | 距離点 | 得点 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 山田 和広 | 明大 | 199.3 | 207.7 | 407.000 |
2 | 黒丸 春雄 | 日大 | 205.4 | 189.865 | 395.265 |
3 | 荒谷 一夫 | たくぎん | 176.3 | 208.39 | 384.690 |
■少年組
1 | 小林 幸一 | 名寄農業高校 | 123.8 | 214.36 | 338.160 |
2 | 高畠 啓博 | 名寄農業高校 | 100.2 | 207.025 | 307.225 |
3 | 細川 洋 | 鷹巣農林高校 | 110.6 | 183.235 | 293.835 |
オリンピック代表選手の勝呂裕司、荒谷一夫が不振でコーチの江遠要甫は「後輩のためにも、もっと気持ちを引き締めて頑張ってもらいたい」と檄を飛ばしている。優勝した山田にも「総合点が低すぎる。国内大会なら430点以上の成績であってほしい」と苦言を呈している。
■クロスカントリー
リレー | 15km | 30km | 50km | |
---|---|---|---|---|
■男子 | ||||
1 | 日大 2:19:12.4 |
高橋 勇 (日大) 48:37.9 |
植田 清 (北方スキー) 1:47:35.6 |
後藤 一義 (カザマスキー) 3:01:21.4 |
2 | 国鉄北海道 2:21:05.9 |
後藤 一義 (カザマスキー)48:45.5 |
佐藤 藤一 (北野建設)1:49:40.7 |
荒沢 正勝 (北方スキー) 3:05:08.9 |
3 | 専大 2:21:35.9 |
成田 耕治 (日大) 49:28.3 |
小林 修 (河合建材)1:50:10.1 |
菊地 二久 (北方スキー) 3:07:02.4 |
■女子 | (5km) | (10km) | ■少年 | |
1 | 日大 59:21.0 |
千葉 弘子 (北野建設)18:31.4 |
千葉 弘子 (北野建設) 39.34.1 |
馬淵 豊和 (朝日鉄工)50:27.2 |
2 | カザマスキー 1:00:48.5 |
照井美喜子 (日大) 18:33.6 |
菊池 篤子 (日大) 40:03.9 |
山田 光美 (白馬高)52:07.5 |
3 | 北野建設 1:00:50.6 |
松村美代子 (北野建設)18:56.1 |
照井美喜子 (日大)40:05.8 |
小林 史歩 (猪苗代高)52:28.9 |
札幌オリンピック終了後、運営本部、選手控え室をはじめ建造物が撤去され、またコース自体も一部官公有地や民有地にまたがっていて使用許可を得るなど、開催までにかなりの時間を要した。また、50kmは最終日に実施するのが通例だったが、長句善に全国高等学校選手権が開催されたため、初日に50kmを実施するなど、変則的な日程で実施された。
■ジャンプ
90m | 70m | 少年 | |
---|---|---|---|
1 | 沢田 久喜(雪印乳業) 100.0m/100.5m 221.2 |
浅利 正勝(雪印乳業) 85.0m/83.0m 243.2 |
敦賀 栄(札幌商高) 72.0m/77.0m 193.8 |
2 | 青地 清二(雪印乳業) 90.5m/93.5m 192.6 |
桑原 英幸(明大) 81.5m/85.0m 239.8 |
岩崎 基志(札幌商高) 70.0m/77.0m 190.1 |
3 | 板垣 宏志(国土計画) 96.0m/86.5m 188.0 |
伊藤 高男(専大) 83.0m/82.0m 230.4 |
秋元 一広(北海高) 73.0m/70.0m 186.2 |
70mでは札幌オリンピックのメダリスト、笠谷幸生、金野昭次は踏切のタイミングが合わず優勝戦線から脱落、逆に雪印乳業のベテラン浅利正勝と沢田久喜は、1本目、2本目とも素晴らしいジャンプを揃えて優勝。メダリスト3選手を退けた。
1973年は、日本のスキー界にとって記念すべきシーズンとなった。この年、苗場スキー場でアルペンワールドカップがはじめて開催された。男女の回転、大回転が行われたが、男子回転では柏木正義が、日本選手としてはじめて10位入賞(当時は10位までポイントを与えられ、ポイント取得者を入賞と呼んでいた)、アルペンブームのきっかけとなった。当時、アルペンは世界と大きな差があり、上位入賞は不可能とも思えるほど遠いものだったが、柏木の10位入賞で「日本のアルペン選手もやれる」に変わり、これを機に男子スラローム陣は急激にレベルアップした。
ちなみに男子回転で優勝したのはフランスのジャン・ノエル・オージェだった。
ワールドカップにおける日本選手入賞第1号となった柏木正義選手の滑り
スキー年鑑の表紙も初のワールドカップ開催で飾った。表彰台の中央は大回転で優勝したノルウェーのエリック・ホーケル、左は2位のアンジ・ヒンターゼア