2008/10/23

連載14 記録に見る日本のスキー競技史
1923年、日本のスキー競技ははじまった

1958年(昭和33年)
第36回全日本スキー選手権大会

会場: 北海道小樽入船公園及び小樽シャンツェ(ノルディック)
長野県志賀高原(アルペン)

 

競技名 種目名 優勝者 所属 記録
ジャンプ 吉沢 広司 同和花岡 78.5m/77m
ノルディックコンバインド 笠松 繁 東洋高圧 418.01
クロスカントリー 耐久 河村 昭夫 東洋高圧 3:29.50
長距離 北村 辰夫 中電工 1:01.23
女子 横山 良子 風間スキー 48.34
リレー(男子) 東洋高圧 2:28.46
リレー(女子) 三馬ゴム 1:33.26
アルペン 滑降(男子) 園部 勝 法大OB 2:19.9
滑降(女子) 富井 初子 野沢温泉SC 2:44.5
回転(男子) 金丸 睦郎 東洋高圧 2:45.7
回転(女子) 富井 初子 野沢温泉SC 1:57.5
大回転(男子) 園部 勝 法大OB 1:43.6
大回転(女子) 富井 初子 野沢温泉SC 1:42.8

野沢温泉スキークラブの富井初子は、圧倒的な強さで女子アルペン史上初の三冠を達成した。ノルディック3競技は、社会人チームの対抗戦のような様相を呈し、有力選手が所属する東洋高圧の笠松、河村がそれぞれノルディックコンバインド、クロスカントリー・耐久を制した。

 

めずらしい4代にわたる会長が顔を揃えた。左から小島三郎(二代)、稲田昌植(初代)、木原均(四代)、小川勝次(三代)(スキー年鑑第27号より)

めずらしい4代にわたる会長が顔を揃えた。左から小島三郎(二代)、稲田昌植(初代)、木原均(四代)、小川勝次(三代)(スキー年鑑第27号より)

 

世界選手権大会派遣選手と成績
ノルディック:ラハティ(フィンランド)

 

代表選手 参加競技と成績
純飛躍 複合 距離
菊地 定夫 30 58m/60.5m
江遠 要甫 27 415.91
松橋 高司 15km 33 53.25
30km 41 1:52:15.7
50km 37 3:29.10

アルペン:バドガシュタイン(オーストリア)
 

代表選手 滑降 回転 大回転 複合
猪谷 千春 15 2:22.7 3 1:56.7 6 1:55.3 4 12.06
園部 勝 39 不明 21 不明 不明 39 不明

2年前の1956年、コルティナダッペッツォ(イタリア)のオリンピックで、日本選手の冬季オリンピック史上初のメダル(銀メダル)を獲得した猪谷は、得意の回転で銅メダル、日本が不得意とされている大回転でも6位に入り、「世界のイガヤ」を遺憾なく発揮した。
 猪谷は1本目、ヨセフ・リーダー、アントン(トニー)・ザイラーのオーストリア勢を相手に素晴らしい滑りを展開、リーダーに1秒以上のタイム差をつけてラップタイムを奪った。世界一のオーストリアは2本目、リーダー、ザイラーを筆頭にリスクを冒した猛烈なアタックをかけてきた。とくに金メダルを狙うリーダーとザイラーは何度もコースアウト寸前の一か八かの勝負をかけてきた。その両選手のリスキーな滑りを見て、猪谷は安全に滑って3位を確保した。

 

1956年オリンピックで銀メダルを獲得した猪谷千春は、世界選手権大会でも銅メダルを獲得した。スキー年鑑には、オリンピックの表彰台の写真は掲載されていなかったのでアルペン唯一の表彰台の写真ということになる。中央は優勝したリーダー、左が2位のザイラー。(スキー年鑑第28号より)

1956年オリンピックで銀メダルを獲得した猪谷千春は、世界選手権大会でも銅メダルを獲得した。スキー年鑑には、オリンピックの表彰台の写真は掲載されていなかったのでアルペン唯一の表彰台の写真ということになる。中央は優勝したリーダー、左が2位のザイラー。(スキー年鑑第28号より)

 

1959年(昭和34年)
第37回全日本スキー選手権大会

会場: 青森県大鰐町 (ノルディック)
長野県志賀高原(アルペン)

 

競技名 種目名 優勝者 所属 記録
ジャンプ 佐藤 耕一 雪印乳業 83.0m/83.0m
ノルディックコンバインド 田畑日出春 大島農機 448.0
クロスカントリー 耐久 宮尾 辰男 日曹 3:48.38
長距離 松橋 高司 中電工 1:00.53
女子 横山 妙子 風間スキー 44.12
リレー(男子) 青森林友 2:35.23
リレー(女子) 風間スキー 1:18.48
アルペン 滑降(男子) 中止
滑降(女子) 中止
回転(男子) 猪谷 千春 山ノ内体協 2:19.3
回転(女子) 大滝はつ江 三馬ゴム 2:06.0
大回転(男子) 猪谷 千春 山ノ内体協 1:52.2
大回転(女子) 金丸恵美子 平出マグネット 1:41.4

アルペンは1960年のスコーバレーオリンピックの予選を兼ねた大会として行われたが、雪が安定している志賀高原で、大雨に見舞われて滑降が中止となった。少ない雪を回転と大回転バーンに集中して、なんとか両種目は実施することができ、この時は地元、志賀高原の選手として出場した猪谷が技術系2種目を制した。

 

1959年、スコーバレーオリンピックを翌年に控えてプレ大会出場のため船便でサンフランシスコへ向かった選手団。タラップを降りる上から浅木、松井、若狭、谷口、坂田の各選手。(スキー年鑑第28号より)

1959年、スコーバレーオリンピックを翌年に控えてプレ大会出場のため船便でサンフランシスコへ向かった選手団。タラップを降りる上から浅木、松井、若狭、谷口、坂田の各選手。(スキー年鑑第28号より)